「耳を澄まして」 2019/08/23
小さな小窓から たのし気な笑い声が聞こえる 誰がいるのだろう 父さんと、母さんと・・・ 子どもと 犬もいるのかな? 僕には何もないけれど でも、僕は知っているんだ 僕は一人ぼっちじゃないってことをね いつも僕を見守り 語りかけてくれる優しい方がいてくれるってことをね 忘れていても 僕には時々聞こえるのさ 「それでいいんだよ」って声が このまま まっすぐ歩いていけばいいって 気づかせてくれるんだ ふりむいても そこには誰もいないけどね 路地裏のいつもたたずむ電柱の下に 小さなひび割れがあって そこに草が生えだした そしていつしか茎の先に白い花がついたんだ ヒメジョオンのような ちいさなものだけど 見つけた僕はうれしくて 叫んでいたよ 「神様、僕にキセキをありがとう!」ってね 人生捨てたもんじゃないよね 僕にも答えが届くんだ そして今日も僕は小さなキセキを探すよ 神様が見せてくれる僕だけの宝をね ・・・ だから 君もほほ笑んで 君は一人じゃないよ 耳を澄ましてごらん 鳥のさえずりの中に 君だけの歌が響いているから 君だけのさえずりが~ 人生は捨てたもんじゃないよね 誰も気づかない君だけの歌が 今日もきっと聞こえてくるから 君を一番愛してくれる方から届けられる 君だけの歌が~ ♪♪♪
0 コメント
「あの日の温もり」
いつか見たあの青い空は 誰とだったの? あの時、誰がそばにいてくれたの? 吹き渡る風が 君の頬をなで 涙の粒が消えていった 誰も知らない君の悲しみを 誰が聞いていてくれたのだろう あの人は君に寄り添い 心の奥の痛みに触れてくださった 君の心に人は入り込めない どれほど人を愛し どれほど人に愛されてもなお 人には埋められない孤独が在る あの丘に行ったかい? 君はそこで出会ったかい? 白い衣を着たあの人に 君を優しく見つめるあの人に 君は知らなかったのかい? あの人は君がママのお腹にいたときから 君のことを見つめていたのさ 君がいろんなハンデをもって生きていくことを あの人は知っていたんだ だから恐れないで 君は愛されている人だから 誰よりも 君は愛されて生まれてきた人だから ・・・ 僕には見えるよ 君を抱きしめるあの人の優しい笑顔が 君を離さないあの人の強いまなざしが 強く生きてほしい 生き抜いてほしい やがて君はあの人に 目と目を合わせて会える日が必ず来るのだから やがて今日は終わり 君にも永遠がやって来る 君も、僕もそこで一緒にいられるよ あの人の腕の中で その安らぎの御腕の中で いつも、いつまでも・・・
「いのち輝く」 私がまだ若かったころ 誰もがいい人に見えた 時が経ち いい人は何処にもいないと分かったとき 私自身にも愛想が尽きた 救いようのない灰色の世界に 白い翼が舞い降りた 天からの恵みが訪れた 失望と悲しみの中に 一筋の希望が差し込んだ 「イエス」 そう呼んでいいと教えられた イエス、イエス、イエス 私はその名を何度もくり返した 怖れと不安の中で私は叫び続けた イエス・・・ ― 目の前の暗闇に光が差し込んだ 私はただ呼び続けた あなただけを求め続けた そして私は あなたの中で生きることを知った あなたが私の喜びとなり 生きる希望となり いのちとなった あなたが私にくれた白い翼 不完全な私のためにあなたが調節してくれた私の羽 私は飛び続けるうち 自由になった 過去の嫌な出来事が全て消え きらめくいのちがほとばしり流れた 私は心から あなたによって生れたことを喜んだ あなたに見出され愛されている いのちのきらめきの中で・・・ 「 遠くの隣人さん」 昨日、遠くの隣人さんに会った 被災地の学童保育の片隅で 痛んだ座布団の... 繕いをなさっていた 遠くの隣人さんは東京から来られていた 被災地が「ボランティア足りない」というのを聞いて 遠路はるばる来てくださっていた 破れた座布団は 被災地の子どもたちが投げ飛ばし ぼろぼろにして遊んだためということだった 「大切にしてね」と子どもたちに声掛けながら 遠くの隣人さんは針を刺していた 「本当は泥かきに来るつもりで来た」のだと 遠くの隣人さんは言っていた 「それで来たら座布団の繕いだった」と言われてた 隣人さんは私よりずっと年上に見えたけど 私よりずっとパワーがあって「どすこい」だった ちょこんと彼女の隣に座って 私も針を持った 私は泥かきはできなくて針仕事ならできると思った でも こんな私でも 遠くの隣人さんのそばにいたら 泥かきもできそうに思えた 近しい隣人にも増して 遠くの隣人さんが頑張っている そんな被災地を覚えながら 「親切なサマリヤ人」に癒された行き倒れの「ある人」は この私だったとつくづくそう思う 親切な隣人になろうとして 実はいつもイエス様に愛をもらいに行っているだけの者だと つくづくそう思う 久しぶりの更新です。
イスラエル旅行記は途中半ばのままですが、しばらくお休みします。 ちょうど西日本集中豪雨の時、可愛がっていた愛猫が危篤になり、雨で浸かった道を回り道しながら点滴に通っていました。15年一緒に暮らし、家族の一員で、教会の礼拝にもやって来て、信徒さんにも可愛がられていた猫でした。病気が悪化した時はつらかったですが、最後の一息まで看取ってやりました。 それから慌ただしく日々が過ぎ、やっと身辺も落ち着き、倉敷市真備の被災地にボランティアに行くことができました。 とはいえ、50代後半で体力がないので泥出しなどの肉体労働は控え、学童保育のお手伝いに先週、初めて参加させていただきました。ここの小学校は被災を免れていて、被災した小学校の学童を受け入れ、合同の保育をしていました。 学童保育のお手伝いと言っても、子どもさんと一緒に遊ぶので肉体的には問題はありませんがどれだけお役に立っているのかは分かりません。 ただそこに行き、真備の街並みを通り、その地の方々の痛みを覚えて祈るようになれました。 そして明るいお子さんたちの笑顔の中にも、ふと辛い思いが見える時があります。それで、そのような思いに少しでも寄り添えればと願っています。自分の力の無力さをイエス様に励まされています。 暑い日が続いていますが、今朝、めずらしく窓から入る涼しい風を感じました。 今日の日も神様に感謝。 聖地イスラエルに行ってから早2か月が経ちました。感動の12日間で、帰ってからも心の整理ができませんでした。イスラエルについてあまりにも無知のまま出かけたので、帰国してから勉強が始まりました。ただ、このような未熟者をイスラエル建国70周年という貴重な年に行かせてくださり、また新教会堂を同時に完成させてくださり、そして行った先に大切な方と出会わせてくださったことに神様の私たちの教会に対するご計画を示されています。
今回の旅はその準備においてすべては神様のご計画と配慮の中で進められていきました。そして、旅に向けての日々の中で、必ず会うべき人がいるということを示され続けていました。その方が誰なのか、全く分からないまま私は成田を出発しました。成田で出発のための列に並び、荷物の検問を受けようとするとき、ある女性の方に「同じB班ですか?」とお尋ねしたら、「そのようです。私はこちらの牧師班のようで、よろしくお願いいたします。」と感じの良い返答をしてくださった方がおられました。その方がオメガジャパンの横田先生だと気づいたのは旅も半ば、死海地方のホテルに向かうバスの中でした。ふと旅のしおりの名簿を眺めていた時、なんだか聞いたことのあるオメガ・ジャパンの横田先生の名前を見つけ、その方が同じバスに乗っておられるという事実に気づかされたのです。それでホテルに着いてロビーでご挨拶したら、最近までの病が癒され、旅に来ることができたのだということでした。まさか、祈っていた先生に、しかもこのイスラエルの旅でご一緒でき、同じバスに乗っていたという事実には驚愕しました。しかし、その時はただ先生とご挨拶ができたに過ぎないものでした。 それから、その翌々日、エルサレム観光に周っていたお昼のランチは中華料理店でした(と言ってもイスラエルなので酢豚にも豚肉は入っていないような料理なのですが…)。このとき、気が付いたら横田先生と隣り合わせの席でした。それでなんとはなしに、いつしか話はスティーブンス・栄子先生のことになり、「イスラエルのために祈るアンテナのような教会が岡山にも必要です。」と横田先生がおっしゃったとき、腹の底から声が湧き上がって来て口を開いたら「うちの教会がそのようになりたいです。」と言っていました。それは、そのことを言うために私はイスラエルまで来たのではないかと思えるような劇的な瞬間でした。聖霊に満たされ、私は涙が溢れて止まりませんでした。「エルサレムの平和のために祈る。神の民イスラエルを愛して祈る教会。」その主の御心、主の使命に生きる教会。 ・・・涙している私を見て、周りにいた誰かが「そんなに中華料理に感動したのか~」と笑っておられておかしかったのですが、やっと会うべきお方と会えたという思いに私の心はハレルヤ!神様の私へのメッセージを受け取った瞬間でした。 このことが帰国した今になってつくづく身に沁みて来ています。神様は期待を与え、空手で帰すことのないお方です。示されることに忠実に従っていくならば必ず神様の御心を尋ね求めることができるのです。自分にとって 、また教会にとって大きな一歩、新しい転機となる備えが用意されていたのを知らされた旅でした。 ・・・つづく いつか行ってみたいと願っていたイスラエルに行くことができました。それは神様の側が一切のことを備えて与えてくださいました。費用も、時も、段取りも、すべて神様が一方的に用意してくださったのです。 4月10日(火)午前、成田を飛び立ち、11時間のフライトのおり、窓から外を眺めているとき、ふいに私のような者を聖地に連れて行ってくださる神様のお計らいに胸が熱くなり、「自分は神様に愛されている存在である」という迫りがもたらされました。 思えば昨年、母から不意のお小遣いをもらったとき、「神様、このお金をイスラエルに行くための足しにしてください。」と祈りました。イスラエルは行きたい国であり、また私には実現の遠い国でした。また、私は若かりし頃、アウシュビッツ強制収容所のことを知り、いつかそこへ行きたいとの願いも持っていたことを今回の旅では思い出しましたが、神様はその両方を一度に実現させてくださいました。 5年前、教会開拓が開かれてから、BFPジャパンを通してイスラエルへの小さな支援が始まっていました。そうしてスタッフの方が訪問をしてくれてから、このBFPの祈りのチーム「ハイナイト」に参加するべきか祈り求めていた昨年、スタッフの方とのやり取りから、「2018年イスラエル建国70周年記念ツアー」が企画されていることを知らされました。まだイスラエルに行ったことのない牧師には優待ツアーとなっているということで、その費用を尋ねたら、それは母からもらった金額とほぼ同等でした。これは神様の導きであると受けとり、主人も一致をもって送り出してくれることになったのです。 このツアーはイスラエル建国70周年を祝うだけではなく、「いのちの行進ツアー」と銘打ってあり、イスラエルへの愛を体験するためのものでした。それでイスラエルに入る前にポーランドに行き、かつて死の行進のなされたアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所間を歩きながら、ホロコースト全犠牲者を追悼するという日程が組まれていました。この年、「いのちの行進」も特別な30周年目を迎えており、世界中から約1万2千人のユダヤ人が参加予定されており、私たちはホロコースト記念式典にも参加させてもらえたのです。 アウシュビッツ=ビルケナウの強制収容所間は3キロほどの距離でした。道のあちこちに警備の警官が見守ってくれている中、私たちはビルケナウの建物につながる線路に立ち、平和のメッセージを記した木の板をそれぞれが置いてきました。二度とこのような悲惨なホロコーストが起こらないように、祈りをもって私は置きました。そこは寂莫とした広大な敷地であり、希望のない死の門の入口でした。ここに送られて来たユダヤ人の魂を思いながら、なんとも言えない思いになりました。 記念式典は盛大で、リブリン大統領と、ネタニヤフ首相の二人が揃って出席なさっていたためか、厳重な警戒態勢でした。その中を私たちツアー総数60名は設けられていた席に座らせていただけました。式典には広島から来られていたチームの方々(おそらく教会関係)が壇上で美しいコーラスを披露されました。またユダヤ人を救済した日本のシンドラーとも言われ、イスラエル政府からユダヤ人を救った人にだけ贈られる「諸国民の中の正義の人/ヤド・バシェム賞」を授与された杉浦千畝さんの紹介がスクリーンを通して行われ、日本人に向けて多くのユダヤ人会衆が大きな拍手を下さいました。杉原千畝さんによって命がつながれた6千人のユダヤ人の子々孫々がきっとこの中にもおられたことでしょう。 また、翌日には、マイダネク強制収容所や、ワルシャワ市内などを見学した後、私たちはイスラエルに向けて深夜ポーランドを後にしました。 2018年4月2日イースター礼拝より、新しい教会堂で礼拝が始まります。 これまでの旧会堂から歩いて百歩ほどの近距離です。平屋の小さなかわいい建物です。 ファミリーマートと明誠学園高校の信号機の間にあります。赤い屋根に白い十字架、青い扉ですのですぐ分かります。お近くを通りがかりの時はぜひお寄りください。 お引越しは今月中に行ないます。 追って看板、掲示板等も上げていく予定です。 ❤会堂献堂式、オープンセレモニーは5月27日(日) 岸義紘先生をお迎えして執り行います。 どなたでもご出席くださり祝福にあずかってくださいませ お待ちいたしております( ◠‿◠ ) 毎日忙しくしていると、大切なものが見えなくなります。
そんなとき、ふと信徒さんの思いやりに心が癒されます💗 今日は夕方の祈祷会に、信徒さんがケーキ持参で来てくれてました。 今日の祈祷会は三人で、心ひとつに祈った後、美味しいお茶の時を持てました。 温かい心が嬉しいですね。 私たちの教会はいつも、思いやり、優しさのある教会でありたいと願います( ˘•ω•˘ )💗💞 |