今日、信徒さんの家で「みことば集会」があり、二か月ぶりに、例の自動販売機の前を車で通ったら、あの販売機はなくなっていました。あの、溝にもぐってキーを拾って来てからほどなく自動販売機は撤去されたということになります。確か、先月通ったときにはまだあったと思いますから、ひと月ほどして無くなったということになります‼
跡形もなく、すっかり消えてしまった自動販売機を思い出しながら、なんだかキツネにつままれているような気がしました。あの場所に自動販売機がなかったら、私はあの場所でキーを落とすこともなく、暗い穴に潜ることもなかったでしょう。そう思うと、私が穴に潜る体験のために自動販売機が置かれていたような気がして、なんだか不思議な気持ちになりました。 確かに、畑の中の山すその道にポツンと販売機が置かれていたこと自体、大した売り上げにはならなかったでしょうし、誰が何のために設置していたものなのか、余計にあそこで体験したことが貴重なことだったような気がしました。 私にとって必死に穴に潜って取り戻したキーはいったい何の意味があったのでしょうか。私は神様が何か大切なことを示しておられるような気がしてなりません。それでしばらく、このことの意味を祈り続けてみようと思いながら運転して帰って来ました。 今日も信徒さん宅の「みことば集会」は恵まれました。今日は聖書の学びの後のお祈りの時間が心の癒しの時となりました。「イエス様の打ち傷」についてのメッセージでしたが、その通り、主の打たれし傷によって信徒さんの心の塞がれていた扉が開かれて、心の癒しの時となりました。長年塞いでしまい込んでいたものに主が光をあててくださり、汚れた思いが捨てられました。御霊によって深く祈りながら、私も、それからイエス様も泣かれていたようなそんな時間でした。 帰りの道すがら、「泣く者と共に一緒に泣きなさい。」という主の御声が心の底から湧き上がって来ました。それでやっぱり私の賜物は、牧師として、そういう生き方をするのだということが分かりました。そうやってお一人お一人の心に天の御国がもたらされていくことのお手伝いに生きるのだなと教えられました。それはやっぱり素晴らしく嬉しい感謝な生き方だと思えます。 泣く者と共に泣くということは、神様の喜びの道だと思いました。 『 心の癒し 』 人を憎んだり 赦せなかったり 受けた傷の大きさゆえに苦しくて どうしようもない そんな心のうめき声を イエス様のもとにさらけ出し 心の底から笑い合える そんな平安が心にもたらされますように・・・ 天の御国のカギが開かれて 神の光が差し出でて 人々の心に癒しが与えられますように そのことを、心から祈ります 主にありて、アーメン。
0 コメント
|